フルクサス
台所のコップに水を注ぐ音、階段を上る足音、紙を折る所作。ジョージ・マチューナスが一九六〇年代初めに集めた作家たちは、こうした何の変哲もない行為を「作品」として提示した。楽譜のように短い指示文だけが書かれた「イベント」と呼ばれる紙片を配り、演奏者や観客がその指示を実行する。絵を描くのでも彫刻を彫るのでもなく、行為そのものと、それが起こる時間を作品にしてしまう発想は、それ以前の美術にはほとんど存在しなかった。
背景には、ジョン・ケージが音楽の教室で説いた考え方がある。無音や偶然の音も音楽の材料になるという主張は、多くの若い作家に、日常のあらゆる出来事が芸術の材料になり得るという確信を与えた。既製品や大量生産品が街に溢れる時代でもあり、美術館に飾られる特別な物としてではなく、誰でも再現でき、複製し、郵送すらできる作品という考え方が育っていった。国境を越えた郵便でのやり取りも、この運動が国際的な広がりを持った理由の一つである。
アリソン・ノウルズは、サラダを作る過程そのものを演奏として提示した。オノ・ヨーコは、観客に鋏を渡して自分の服を切らせる作品や、簡潔な指示文だけの詩集を発表している。ヴォルフ・フォステルは映像や瓦礫を使い、都市の破壊と再生を作品に取り込んだ。いずれも、完成した「もの」を鑑賞するのではなく、行為への参加や想像を促す点で共通している。この運動を代表する人物としてマチューナス自身の名がしばしば挙げられるのも、彼が作家というより組織者として、多様な参加者を束ねた点にある。
フルクサスの作品は、展示室に静かに置かれた紙一枚や小箱であることが多く、一見すると素っ気ない。しかし箱を開け、指示文を読み、想像の中で実行してみることが本来の鑑賞の仕方である。後のコンセプチュアル・アートやパフォーマンスの多くが、この運動の発想を引き継いでいる。作品の前で立ち止まり、そこに書かれた短い言葉を実際に自分の生活で試してみようとするとき、この運動が目指したものが初めて見えてくる。