MOVEMENT

狩野派

Kanō School
15–19世紀 日本 収録作家 14人

応仁の乱で荒廃した京都に、一人の絵師が新しい仕事の形を持ち込んだ。狩野正信は、それまで身分の高い文化人が余技として絵筆を握ってきた世界に、注文を受けて描く専門職としての絵師という立場を確立した。息子の元信はこの体制をさらに押し進め、水墨画の骨法に大和絵の彩色と装飾性を組み合わせ、誰が描いても一定の水準を保てるよう画法を型として整理した。以後、狩野派は将軍家や大名家に仕える御用絵師の家系として、およそ四百年にわたり日本画壇の中枢に居座り続けることになる。

この長い支配を支えたのは、寺院の襖や屏風という大画面への需要だった。城郭や邸宅の壁面を埋め尽くす仕事は、一人の天才による思いつきではなく、工房を挙げた分業と、代々受け継がれる粉本(下絵の手本)によって初めて可能になる。狩野永徳は、この組織力を極限まで活かした絵師である。金地に松や鷹を大胆な構図で描いた障壁画は、細部の緻密さよりも、離れて見たときの迫力と装飾効果を優先している。これは個人の内面を語る絵ではなく、権力者の威光を空間ごと演出する絵だった。

一方で狩野派は一枚岩ではない。狩野山楽・山雪の系統は京都に残り、幾何学的な構成と鋭い筆致で独自の緊張感を持つ画面を作った。江戸に移った狩野探幽は、対照的に余白を大きく取った淡泊な画風へと転じ、幕府の御用絵師として穏やかで格式ある様式を築いた。同じ流派の中に、これほど異なる表現が併存している点は見どころのひとつである。

江戸前期には、探幽に学びながら市井の暮らしに目を向けた久隅守景のような異色の絵師も現れ、狩野派の型は内側から緩みはじめる。それでも、構図の組み立て方や余白の使い方など、この流派が磨き上げた基礎は、後の日本画全体に受け継がれた。展示室では、金地の煌びやかさに目を奪われがちだが、松の幹一本の描き方、余白の広さの意味にも注意を向けると、絵師たちが型の中でどう個性を出そうとしたかが見えてくる。

この運動の作家

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この解説は ArtNote 編集部が執筆しています。 誤りを報告する