室町水墨画
相国寺の僧・如拙が描いたとされる「瓢鮎図」には、大きな謎かけが仕込まれている。丸くつるつるした瓢箪で、ぬるぬるした鯰を捕まえられるか、という禅問答を絵にしたものだ。答えの出ない問いを墨の濃淡だけで宙に浮かせておくこの態度こそ、室町水墨画の核心にある。彩色を排し、筆の勢いと余白の呼吸だけで山や水や人物を立ち上がらせる技法は、それ以前の日本絵画が得意としてきた、金箔や鮮やかな顔料で貴族の物語世界を描く大和絵とは、まったく異なる価値観に立っている。
この転換を後押ししたのは、禅宗の隆盛と、中国大陸との往来である。京都や鎌倉の禅寺には、宋や元の絵画や書が数多くもたらされ、僧侶たちはそれを手本に学び、また自ら筆を執った。明兆や玉畹梵芳のような画僧は、修行の一環として、あるいは悟りの境地を表す手段として水墨を描いた。画業は余技でありながら、同時に精神修養そのものでもあったのである。応仁の乱をはさむ動乱の時代、権威や富の誇示よりも、簡素さのうちに真理を見出そうとする気分が広がったことも、この様式が受け入れられた土壌だろう。
雪舟は、この流れの頂点に立つ存在として語られる。明への渡航を経て本場の山水画を吸収し、帰国後は日本各地の風景を自らの目で見て回りながら、荒々しい筆致と大胆な構図を作り上げた。破墨山水図に見られる、輪郭線をほとんど溶かしてしまうような墨の飛沫は、単なる技巧ではなく、対象の本質を一気に掴み取ろうとする気迫の表れである。一方、雪村のように地方で独自に画風を育てた画家や、能阿弥・芸阿弥・相阿弥という三代にわたる同朋衆のように、将軍家の周辺で唐物の鑑定や座敷飾りを司りながら水墨を描いた一族もいる。彼らの仕事は、絵画が寺院や武家の生活空間そのものと結びついていたことを物語る。
この様式は、後の狩野派による障壁画の力強い構成や、江戸期の文人画にまで受け継がれていく。展示室で見るときは、描かれた対象そのものより、筆が紙や絹の上をどう走り、どこで止まり、どこを敢えて描かずに残したか、その呼吸に目を凝らしてみてほしい。余白は空白ではなく、描かれた線と同じだけの重みを持っている。