日本陶磁
野々村仁清の茶壺には、金と赤で描かれた紅葉が惜しみなく散っている。轆轤で挽いた薄手の陶胎に、絵師の筆さながらの上絵付けを施すという発想は、それ以前の日本の焼き物にはなかった。茶の湯が求めた侘びた土味の器とは対照的に、仁清は色絵という新しい語彙で、焼き物を鑑賞の主役に押し上げた。この転換を可能にしたのが、有田で完成した磁器と上絵付けの技術である。朝鮮出兵に伴い連れてこられた陶工たちが北九州にもたらした技術は、酒井田柿右衛門の手によって、白磁の肌に赤絵を映える様式へと磨き上げられ、ヨーロッパの宮廷にまで運ばれていった。
京都では仁阿弥道八が、仁清の色絵の系譜を受け継ぎながら、京焼という都市の工芸として茶陶や置物を洗練させた。明治以降、初代三浦竹泉や三代清風与平といった陶工たちは、万国博覧会という新しい舞台で日本の陶磁を輸出品としても通用させ、伝統技法の精度をさらに高めていった。彼らに共通するのは、轆轤や釉薬という職人の技術を、絵画や彫刻に劣らぬ表現の手段として扱った点である。
この流れを大きく揺さぶったのが、二十世紀半ばに現れた八木一夫である。彼が発表した、口も注ぎ口も持たない筒状の陶の造形は、実用の器という前提そのものを退けるものだった。用途を離れ、土と炎がつくる形と質感だけで成立する彫刻としての陶芸は、以後の作家たちに大きな影響を与えた。秋山陽の量感ある抽象造形も、この延長線上にある。
いま作品を見るときの勘所は、それぞれの器がどこまで「使うため」で、どこから「見るため」に踏み出しているかを見極めることにある。柿右衛門の皿の余白の取り方、仁清の壺の絵付けの構図、八木一夫の造形が拒んだ実用性。四百年にわたる展開のなかで、土と炎という同じ素材が、時代ごとにまったく違う問いを投げかけてきたことが見えてくる。