具体美術協会
具体美術協会は、一九五四年に兵庫県芦屋を拠点として結成された前衛美術のグループである。中心となったのは画家の吉原治良で、参加者に向けた「これまでにないものをつくれ」という要求は、そのまま活動の指針になった。絵画にとどまらず、身体を使った行為、屋外での大規模な展示、舞台形式の発表など、当時の美術の枠を越える試みを次々に行っている。
活動の背景には、戦後の焼け跡からの再出発という感覚がある。既存の権威や様式が信用を失ったあとで、何を根拠に作るのかという問いに、彼らは「他人の真似をしない」という一点で答えようとした。紙を破って突き抜ける、足で絵具を踏み広げる、泥のなかで格闘する。行為そのものが作品となる発表は、欧米のパフォーマンス・アートに先行する事例として、後年になって国際的に再評価された。
白髪一雄は天井から吊るした縄につかまり足で描き、田中敦子は電球と配線をまとう《電気服》を発表した。村上三郎は紙を張った枠に体当たりして通り抜けた。ほかに元永定正、嶋本昭三らが独自の方法を展開している。松林や屋上を会場にした野外展、舞台の上で作品を提示する形式など、発表の場そのものを作品の条件として扱った点も特徴的である。
「具体」という名は、精神を抽象的に語るのではなく、物質と行為を通して具体的に示すという構えから来ている。絵具や紙や泥といった素材が、何かを表す手段ではなく、それ自体として画面に居座るのはそのためである。もうひとつ見落とせないのが、機関誌『具体』を海外の批評家や美術家へ自ら送り続けたことである。この誌面をきっかけに欧州の批評家が来日し、同時期の非定形の絵画運動と結びつけて紹介されたことで、彼らは早い段階で国外に知られることになった。中央の画壇を経由せずに外部と直接つながろうとしたこの姿勢が、のちの国際的な発見につながった。グループは吉原の死去した一九七二年に解散したが、その仕事は一九八〇年代以降に国外で盛んに紹介され、いまでは戦後美術史のなかで確固たる位置を占めている。作品の多くは行為の結果として残った物であり、記録写真や映像と併せて見ると、何が起きていたのかがようやく像を結ぶ。