洋画(日本近代洋画)
横浜の外国人居留地に、チャールズ・ワーグマンというイギリス人の風刺画家がいた。彼のもとに学んだ日本人たちが、油絵の具の扱い方や陰影のつけ方を学び取ったところから、この国の洋画は静かに始まる。それまでの日本の絵画には、西洋的な意味での遠近法も、光と影による立体感も存在しなかった。墨と岩絵具の世界に、油彩というまったく異質な画材と、ものの見え方そのものが持ち込まれたのである。イタリア人彫刻家ヴィンチェンツォ・ラグーザが招かれて工部美術学校で教えたことも、この動きに拍車をかけた。
洋画という呼び名自体が興味深い。日本画に対する概念として生まれたこの言葉は、油彩技法そのものを指すと同時に、西洋の物の見方を輸入するという明治政府の近代化政策とも重なっていた。久米桂一郎のように、フランスに渡って本場の画法を学び、帰国後は教育者として後進を導いた画家がいる一方、中村不折や三宅克己のように、独学と模索を重ねながら日本の風土に油絵をなじませようとした画家もいた。ラグーザに学び、後に夫について渡欧したラグーザ玉のような存在も、この時代の国際的な人の往来を物語っている。
地方に目を向けると、七星画壇のように画家たちが集まって研鑽しあう場も各地に生まれ、丸山晩霞のような水彩画家が自然主義的な風景表現を切り拓いた。中丸精十郎の肖像画には、写実を通じて人物の内面に迫ろうとする明治的な誠実さが見える。中村彝は肺を病みながらも、人間の存在そのものを見つめるような重厚な油彩を残し、洋画がたんなる技法の輸入にとどまらず、個人の内面表現へと深まっていく過程を示した。
大正から昭和にかけては、三岸好太郎と三岸節子という夫婦の画家が、それぞれ独自の造形を追求し、洋画はすでに輸入品ではなく日本の作家自身の言葉になっていた。今日、これらの作品を見るときは、単なる西洋模倣として片付けず、異なる価値観をどう自分のものにしていったか、その格闘の跡をたどってほしい。